思い出した日記

思い出したことを日記として書き記しています。

水まんじゅう

時期 小学校低学年

場所 福井県

思い出したきっかけ 葛まんじゅう

 

はじめに。

水まんじゅう・葛まんじゅうに関する表現には私の主観がかなり含まれています。

事実と反する表現があったら申し訳ありません。

 

私の両親は関西の生まれですが、何代か遡るとルーツは福井にあると聞いています。

福井には私の曽祖母がいて、夏休みには度々家族で遊びに行っていました。

 

滞在中の思い出は色々あるのですが、一番の思い出は水まんじゅうです。

 

曽祖母の家から少し歩いたところに和菓子屋さんがあり、店頭で水まんじゅうを売っていました。

冷んやりとした掛け流しの水に水まんじゅうが沈み、きらきらと光っている光景は未だに思い出すことができます。

 

1個100円もしないような値段だったと思います。

水でよく冷やされた水まんじゅうを購入し、その場でつるんと一口でいただくのが最高の贅沢でした。

毎日5個ぐらい食べていたと思います。

 

最近、都内の和菓子屋でも水まんじゅうを目にすることが増えました。

また、見た目は全く同じ葛まんじゅうはなおのこと目にします。

 

ですが、声を大にして言いたいのです。

どちらも私が大好きな水まんじゅうとは全くの別のものです。

 

まず、葛まんじゅうはそもそも水まんじゅうとは素材からして違います。

葛は文字通り葛粉から作られていて、それ以外には砂糖と水が使われているだけです。

一方水まんじゅうは、葛粉がベースになっているもののわらび粉等も含まれています。

 

店によっては、

水まんじゅう(葛まんじゅう)

または、

葛まんじゅう(水まんじゅう)

といったような表記を見かけることがありますが、本当にやめていただきたい。

 

また、水まんじゅうと名前の付いた商品もよく見かけるようになりましたが、私が求めるものとは全く違います。

プラスチックの容器に詰められ、1週間日持ちします?

そのようなものじゃないんですよ。水まんじゅうは。

コンビニで水まんじゅう?

いい加減にしてください。

 

水の中に入れると境界線が曖昧になってしまうような繊細さが水まんじゅうの醍醐味です。

プラスチックの容器に入っている時点で減点です。

 

こんな具合で、水まんじゅうに対する私の目はかなり厳しくなってしまっています。

和菓子屋を通りがかる度に水まんじゅうの文字を探しては、無くてがっかり、有っても期待した物でなくてがっかり、を繰り返しています。

 

いつか、また福井で同じ物をいただきたいと思っています。

 

(追伸)

葛まんじゅうや、コンビニの水まんじゅう等を貶す意図はありません。

どれもとても美味しい和菓子です。

 

芝生刈りと父

時期 小学校高学年

場所 自宅

思い出したきっかけ 実家の芝生

 

実家は一軒家で、狭いながらも庭があります。

庭には母の趣味で植えられている草木がありますが、それ以外の大半の部分には芝生が敷き詰められています。

夏に帰省すると綺麗な緑色の芝生を目にすることになるのですが、今年帰省した際に目にした芝生は薄茶色で、状態が良いようには見えませんでした。

 

父と話をしていると、今年は腰が痛くて芝生の手入れができなかったとのこと。

芝刈りはもちろん、雑草抜きからエアレーション(地面に穴をあける)など、たしかに腰に負担がかかりそうな作業ばかり。

毎年ご苦労様、と労いました。

 

そんな話をしているときに思い出したことがあります。

 

ある夏の日、昼食後にリビングで家族みんなで団らんしていたところ、父は「庭の芝生を刈ってくる」と庭に面する窓を開けて外に出て行きました。

その後父は何回か庭と部屋を往復していましたが、あるとき窓が少し空いていることに私は気づきました。

父に「クーラー付けてるんだから閉めてよ。暑いじゃん」と言ったところ、父は激怒。

 

「こっちは暑い中外で作業しているんだから、それぐらい我慢しろ!!」

 

たしかに外が暑いのは分かっていましたが、窓を開けっぱなしにしたって外は涼しくならないよね?

と思いましたが、黙っておきました。

 

その時からです。

私が父のことをなんとなく嫌いになったのは。

早めの反抗期の始まりです。

 

父は基本的にマメで、やることが丁寧な人間です。

今思い返せば、窓を開けていたのは部屋と外を何度も出入りするときに、汚れた手で窓を開け閉めするのを嫌ったからなのでしょう。

 

しかしその当時はそんなことにまで考えが及ばず、「みみっちいことで怒る小さい男」と思ってしまいました。

 

その後、反抗期(と言っても暴力的になったりはしませんでしたが)は、大学生の時に一人暮らしを始めるまで続きました。

一人暮らしを始めたことでお金の大切さが分かるようになったり、父や家族のことを少し客観的に見ることができるようなったりしたせいか、父についてイヤな感情はなくなっていきました。

 

面と向かって言うのは恥ずかしいのでここに書き残します。

その節はごめん。いつもありがとう。

宝探しゲーム

時期 小学校6年生

場所 学校中

思い出したきっかけ 電車広告

 

最近、リアル宝探しゲームが流行っているそうです。

謎解きゲームの一種で、各所に散りばめられたヒントを手がかりに、隠された宝物を探し当てるというゲームです。

 

対象は幼児・小学生はもちろんのこと、大人が対象のものもあるそうで、少し興味があったりします。

でも、いざやるとなったときにゲームに没入できるかが心配です。

入り込めないと恥ずかしさが勝ってしまいそうで……。

 

そんなことを考えながら電車の広告を見ていたのですが、小学校のときに宝探しゲームをやったことを思い出しました。

 

卒業が近い時期だったと思います。

学校中を使った宝探しゲームをやったことを記憶しています。

 

文字通り学校中を使ったゲームで、先生たちが教室や理科室など、はては配膳室などにまで宝物を隠しておき、それを6年生のみんなで探すというと大掛かりなものでした。

(とは言っても、子供たちだけで危険な場所には入れないような配慮はしてあったかと思います。)

 

私が覚えているのは社会科の準備室で宝物を見つけたときのことです。

薄暗い部屋の中を探し回っていたら、目的のものを見つけることができました。

 

もちろん喜んだのですが、それとともに寂しさが込み上げてきました。

もうこの部屋に入ることはないだろうし、少し経ったらこの学校に来ることもなくなるんだな、と。

 

そこで私は、見つけたばかりの宝物を部屋のもっと奥の方に押し込み、再度隠すことにしました。

卒業後、またこの部屋に入ることができたら探してみようと思ってのことでした。

 

卒業してからその部屋はおろか校内に入ったことは一度もありませんし、隠した宝物がどんなものだったのかも、もう覚えていません。

でも、たまにこの宝探しゲームのことを思い出すと懐かしく、そして少し物悲しい気分に浸ることができます。

 

父方の祖父の死

時期 6歳頃

場所 車・祖父母の家

思い出したきっかけ 子供を見ていて

 

私の父方の祖父は、私が6歳の頃に亡くなりました。

肺がんで60代前半に亡くなったと聞いています。

 

ある日、自宅の電話が鳴り、それを取った母が大声を上げていました。

そして大慌てでまた電話を掛けたり、出かける準備をしていました。

 

母に何があったのかを尋ねると「おじいちゃんが亡くなった」とのこと。

ですが、6歳の私には「亡くなった」の意味が分かりませんでした。

 

祖父母の家は私の自宅から車で4時間ほどのところにあります。

父がいつもと違う時間に帰宅してきて、その後すぐに車で祖父母の家に向かうことに。

「じいじ・ばあばの家に行く」と聞いて、ワクワクしたことを覚えています。

 

道中、母が急に泣き出しました。

父は運転していたので泣いてはいなかったとは思いますが、どう考えても楽しい雰囲気ではありません。

私は、後ろの座席で妹と2人で静かにしていました。

 

そして祖父母の家に到着し、両親は慌ただしく何かの準備を始めました。

私と妹は放っておかれることになりますが、親戚がどんどん祖父母の家に集まってきました。

親戚の中に同年代の子を見つけ、3人で遊んでいると何かが始まったようです。

 

みんな黒い服を着ていて、私もよそ行きの服に着替えさせられました。

良くないことが起こったことは理解できていましたが、どんな反応をしてよいのか分からない。

何かの最中はずっと3人で飛び跳ねていました。

 

以上が祖父が亡くなった時の私の記憶です。

当時の私に悲しいという感情は全くなく、楽しく遊んでいました。

 

私の祖母が亡くなった直後に、私の子供は生を受けました。

今後、祖母の命日の法事と我が子の誕生日は切っても切り離せない行事になると思われます。

会ったことすらない曾祖母の死というものを理解してくれるのは、いつぐらいになるのでしょうか。

百か日の法要でお坊さんの念仏を子守唄にすやすや眠る我が子を見て、そんなことを思いました。

スタンプラリー

時期 小学校5年生

場所 キャンプ場

思い出したきっかけ 別の記事を書いていて

 

「カレー味のしないカレー」の記事を書いていたときに思い出したことです。

 

上記の記事では、小学生の時の野外実習中にやったスタンプラリーの結果、カレールウを手に入れることができずカレー味のしないカレーを食べる羽目になったことについて記載しました。

この記事では、スタンプラリーについて思い出したことを記載することにします。

 

班ごとに分かれてスランプラリーをすることになり、班長という立場であった私は地図を片手に皆を先導していました、

順調にスタンプ(食材)を見つけることができていたため、終盤に差し掛かる頃、私は余計なことを言ってしまいます。

 

「余裕だね! スタンプ探しのコツもつかめてきたし!」

班の皆も「さすがー!」とか言ってくれて、私も気をよくしていたような気がします。

 

しかし、最後のスタンプがなかなか見つかりません。

最後のスタンプはよりによって最重要であるカレーのルウ。

これが見つからないとカレーになりません。

 

必死になって皆を先導しますが時間だけが無情に過ぎて行き、結局タイムアップ。

ルウのスタンプは見つかりませんでした。

 

集合場所にとぼとぼ帰る途中、ある女の子がぼそっと「コツを掴めたんじゃなかったの?」と言いました。

返す言葉もなくしょんぼりとする私でした。

 

しかもその女の子は私の初恋の子、りんちゃん。

「コツ」のくだりも、彼女がいたからこそカッコつけようとして言ってしまったものでした。

結果、真逆の最悪のカッコ悪い展開に……。

 

カレー味のしないカレー自体は楽しい思い出になりましたが、スタンプラリーでの私の一連の言動を思い出すと、未だに顔が熱くなる気がします。

ウワアアアアアー。

放送委員1

時期 小学校4〜6年生

場所 放送室

思い出したきっかけ ラジオ

 

我が家にはテレビがありません。

テレビはありませんが、ラジオはあります。

元々は防災用に購入したのですが、思いのほか面白い番組が多くて、何か耳にしていたい時にはラジオを聴くことにしています。

 

ある日ラジオを聴いていたところ、小学校の放送委員のことを思い出しました。

 

私の小学校では4年生以上は必ず何かしらの委員会に入ることになっていて、年度の初めにクラスの中で前期・後期の割り振りを決めていました。

その委員の1つが放送委員なのですが、私は4年生〜6年生の通算6期のうち、3期について放送委員をやっていました。

 

放送委員の仕事は、文字通り放送をすることです。

朝礼前、長い休憩の前後、給食の前後、帰りの時間や各種イベントの際に放送室から放送を流すのが仕事でした。

 

4年生の時、放送委員になった直後に驚いたのは自由度の高さでした。

 

放送室は職員室の隣にあり、扉1枚しか隔てていませんが、放送をする部屋という性質上、先生方と言えど放送室のドアを自由に開け閉めすることはできません。

そのドアには鍵が付いているのですが、放送室側からしか鍵がかけられないようになっていました。

学校という空間の中で、先生が簡単には立ち入ることができない部屋があるということに驚きました。

 

また、放送室の隣には準備室があるのですが、ここは放送室からしか入ることが出来ず完全に独立した空間でした。

 

そんな部屋があれば子供たちが何をするのかと言えば……。

そりゃ、遊びまくりますよね?

 

もちろん大声は出せませんが、ゲームやトランプを持ち込んだりやりたい放題でした。

給食中も放送があるため給食を食べながらトランプとか、先生に見られたら大目玉をくらうこと間違いなしです。

 

仄暗い部屋でコソコソと遊んだことは良い思い出です。

 

この記事を書いていたら放送委員について他にも思い出したことがあったので、この記事のタイトルに「1」をつけました。

そのうち「2」を書こうと思います。

 

瓶ビールの蓋

時期 5歳頃?

場所 祖父母の家

思い出したきっかけ 瓶ビールの蓋

 

普段は缶ビール派の私ですが、誰かからいただいたのであろうビール券が部屋から出てきたため、酒屋で瓶ビールと交換してもらいました。

最近は外食することもあまりないため久々の瓶ビールでしたが、イイですね。

瓶ビールもグラスもしっかり冷やして飲んだら、プハーって声が自然に出てしまいました。(オジサン)

 

飲み終わり、瓶ビールの蓋を気持ちよく見ていた時に思い出したことがあります。

 

私の父方の祖母は8人(9人だったかも?)兄弟の末っ子でした。

そのため私の父には叔父・叔母や従兄弟がたくさんいて、冠婚葬祭や正月などの年中行事の際には皆が集まり大宴会をしていたことを記憶しています。

 

あまりにたくさんの親戚がいたため、今となっては正直大半の親戚の顔は覚えていませんが、一人だけ印象に残っている人がいました。

祖母の兄にあたる人で、とても面白い人でした。

 

ある宴会の場で、そのおじさんから瓶ビールの蓋を2つ集めてくるよう頼まれました。

おじさんに蓋を渡すといきなり立ち上がり、変顔をしながら蓋を両目に!

 

しかもギザギザのあるほうを目にはめていました。

絶対痛い……。

 

しかし私を含めて子供たちは大爆笑です。

もっともっととせがみ、当分の間おじさんは目が蓋になっていました。

 

その話を両親に話すと、

「面白いおじさんであんた(私)もとっても可愛がってもらってたんだよ」

とのこと。

「他に覚えてることはないの?」

と聞かれましたが、お世話になった覚えはあるものの印象に残っている出来事は上記のことだけでした。

「あんなにお世話になったのに……」

と両親は呆れていました。

 

そのおじさんは15年ほど前に、祖母も昨年に亡くなりました。

コロナ禍ということもあり親戚づきあいもめっきり減ってしまいましたが、もし小さい子たちが集まる場に私も顔を出す機会があったら、私も瓶ビールの蓋を目にはめてみたいと思います。

 

(追記)

よく考えたら、瓶ビールじゃなくてビール瓶かも……?

いつも分からなくなりますが、やっぱり今回もよく分からないのでこのままにします。